言葉

こんばんは。

 

巧に文章を紡げるようになりたい。それは、極限まで無駄を削ぎ落とした明晰で鋭い文であったり、それとは対照的な、ゴテゴテと飾りたてられ、胃にモタれてしまうような重厚な文を巧みに織り込みながら、編み上げられた文章。詩のように文章の構造と表現したい内容が不可分に結びついているような。

僕は、言葉をただある思想を表現するだけの道具として使いたく無い。思想はもちろん自然に沸き起こると考えられている感情すら、恐らくまったく言葉から独立して生じることは無い。このことを否定的に捉えるとすると、言葉によって人はあらゆる行動や気持ちの手綱を握られてしまうということ。そして、そこから自由になりたいとすれば、自分を縛り付ける言葉に対して、言葉によって徹底的に向き合うしかないんじゃないかな。

もちろん、言葉に対抗する言葉も結局のところ、自分を縛り付ける言葉に包摂されてしまうのかもしれないけど、自分が使う言葉に向き合うその刹那、付け入る隙がないように見える言葉のネットワークは動揺するんじゃないかと思う。だから、言葉に使われるのではなくて、言葉を使うことができたときに僕は、一番自由を感じる。その時が自分のなかで新しいものが生み出されているのだから。

 

前半と後半で話が違ってきてしまったし、ルソーは何処に行ってしまったのだと自分でも思う。

おやすみ

焼き肉

なんっちゅう料理なんだ焼き肉は。

ただ目の前の炭火で焼くだけなのになんでこんなにうまいんや。

ジュージューと音を立てながら、だんだん色が変わっていくカルビ

煙とともに運ばれてくる焼けた肉の匂い。

泣きながら食べました。

 

最近寝付きが悪くて疲れてて、これくらいしか書けないのだ。

それでは。

 

遅くに更新。

東京に住み始めて早10年が経とうとしていますが、今更みたま祭りに初めて行ってみました。神社の入口から本道に到るまで、参道の両側に沿って光の壁のようにずらっと並べられた提灯は、噂に聞く通り圧巻でした。寄付をしたら提灯に記名をしてもらえる(?)ようで、自分の名前を探して記念撮影をしている人もチラホラ。

盆踊や神輿という祭りの定番の他にも、合唱や応援団というちょっと珍しい出物も催されていて、独特な雰囲気が漂っていました。

友達と行ったのですが、ひとの多さとカキ氷の値段の高さ(400円なので普通の祭価格…)にやられて、そそくさと境内を後にしました。結局、駅の近くにあるファミレスにたどり着いて、そこで楽しくお喋りをして解散しました。

平成最後の夏、目一杯楽しく過ごしたいなぁと思います。

今日は、短いけど終わります。

ルソーについて気になったところだけ3

 

暑すぎて、ぼーっとするどころか気分が悪くなってきます。

 

昨晩はラーメンを食べた後に猛烈な睡魔に襲われて、少しだけ仮眠を取ろうと思ったのダメでした。起きたらとっくに日を跨いでしまっていたので、何もかも投げ出して寝てしまいました。

せっかくこれまでシコシコと読書メモを付け続けてきたのに、ちょっとした気の緩みで途絶えてしまったのは残念だけど、仕切り直して取り組みたいと思います。

それと、明日とうとう我が家にインターネットが開通するのです。今時ネットがなくてまともな市民生活を送ることができるのかとお思いになるでしょう。そう、めちゃくちゃ不便でした。ネット配信でドラマや映画を見ることができないから、人の話についていくことができなくて悲しい思いをすることもしばしばありました。そんな日も明日でおさらばなのです。わーい。

 

ということで、今日のメモ

ルソーは、『人間不平等起源論』のなかで初めて「自然」という概念を提示します。まず、ルソーは、人間が今現在置かれている内的・外的状況から、人為的なものを全て取り除けることによって純粋な自然状態を抽出します。こうして人間の原初の状態である自然状態が、知的な操作によって見つけ出されるます。当然、このようにして「発見」された自然状態は、実証的な調査に基づくものではありませんから、どこまでも仮説的・理念的なものに留まり続けます。ルソーは、このことを十分理解していたため、自然状態について、「もはや存在せず、おそらく存在しなかったし、たぶん今後も存在することは決してない」状態であると述べていますし、「歴史的な事実でなく、ただ仮説的条件的推理」としています。

そして、観念的に抽出された自然状態とは、ルソーによれば次のようなものであるそうです。

 

「こうして自然状態における人間が感性的な個人として抽出されるとき、自然人は本能に従って生きる存在であって、基本的に他の動物と異ならない。すなわち観念はあっても予見能力がないから欲求は生理的なものにとどまり、コミュニケイションがないから比較、競争、虚栄のような情念は生まれない。それは社会以前の状態であって、道徳的には善でも悪でもない。すなわち、社会生活のもたらす言語も悟性も良心もない。けれども、それは文明に伴う虚弱や病気や卑屈さのない、平和な状態である。」(福田歓一『ルソー』123頁)

 

ここで述べられている「感性的個人」がどのようなニュアンスで用いられているのか、正直なところあまり理解できていないのですが、おそらく自然状態にある人間は、感性を通してしか世界を認識していなかったということを含意しているのだと思います。この点に関しては、大事な部分なので、もう少し勉強してから詳しく述べることとします。

少し話が脱線しましたが、自然人とは、比較や競争や虚栄といった情念をもたず、屈託のない平和な状態に生きていたこととなります。ホッブスやロックと異なり、ルソーの自然観では、自然が何らかの欠乏がある状態ではないということが重要です。むしろ、それ自体としてすでに完成した状態であると言ってよいでしょう。

とすれば、どうしてこのような屈託なく平和に暮らしていた自然人たちが、文明への道に舵をとら必要があったのかという疑問が当然生じることとなります。

 

今日はこのあたりにしておきます。次回は、できれば実際に『人間不平等起源論』にあたりながら「自然」という概念について補足しながら、なぜ人間がこの状態から抜け出してしまったのか考えていきたいと思います。

ルソーについて気になるところだけ2

こんばんわ。

 

何と新型のMacBook Proの発売が発表されました。そして、先週の日曜日にMacBook Proを買った僕は、このニュースを聞いて涙で枕を濡らしました。そんな何の前触れも無く出さんといてくれよ…まぁ文章を書くかネット見るかくらいしかパソコンを使わない僕にとって、新型である必要はまったくないんだけど、できれば新しいやつが欲しいのが人情ってものです。

と、グチグチ言っていてもしょうがないので、早く買った分だけブログを早く再開することができてよかったと、無理矢理自分に思い込ませることにします。

 

ここから本題に入って行きたいと思います。昨日は、ルソーの歴史認識について簡単に書いてみたのですが、まず簡潔にそれをまとめたいと思います。

ルソーが生きた当時のフランスは、文化的・政治的にかつてないほどの隆盛を極めていました。こうした繁榮のなか、人々は技術的進歩を通して社会が恒常的に発展してゆくことを信じ他のでした。しかし、文明の批判者たるルソーの目には、こうした進歩発展が欺瞞に映ったのです。昨日も引用した言葉ですがもう一度引用しておきます。

「われわれの学問・芸術が完全なものへと進歩するにつれ、われわれの魂は腐敗した」(『ルソー』福田歓一, 117頁, 孫引きで申し訳ありません)

 

 

と、ここまでが昨日のまとめなのですが、誤解していた部分があるので、まずそこを訂正します。最後に載せた引用ですが、これはルソー37歳のときに刊行され一躍その名を世に知らしめることとなった『学問芸術論』(1750)から抜き出してきたものです。遅咲きのルソーにとって、初めての学術論文であるこの『学問芸術論』には、まだ生硬な部分も数多く見出されます。ルソーの歴史認識がより洗練された形で世にでるのは、『学問芸術論』が発表されてからさらに5年後に発表された彼の代表作の1つ『人間不平等起源論』(1755)によってです。福田さんに従って、この間のルソーの思想的発展を簡潔にまとめると次の2点に集約できます。

1つめは、『学問芸術論』においては、未開から文明への発展、そしてそれに伴う純粋な習俗からの堕落を例証するために、様々な文名が並列的に並べられているのですが、それをまとめあげげ、「人類全体の歴史を一つの起源から不平等、その事由としての人間の相互依存関係の展開」として描きだすところまでは到達していなかったということ。二つ目は、文明が進展するにつれて堕落していくという「徳性」という概念にはっきりとした輪郭を与えることができていないという点です。『人間不平等起源論』においては、「社会制度以前、すなわち相互依存-不平等に先立つ自然を原点として設定」することに成功しているのです。

すなわち、ルソーの思想、歴史認識を理解するうえで不可欠な「自然」という概念は、『学問芸術論』においては、まだ明確に打ち出されていないかったにも関わらず、この論稿からのみ引用したのは、明らかに正確さを欠く叙述でした。

 

ということで、今日はここまでで終わります。ブログというか、ただの読書記録ノート(それも極めて私的な)と化しているますが、時機にきちんと一つに纏めたいと思います。

ルソーについて気になるところだけ1

こんばんみ

ここ最近の寝苦しさは尋常じゃない。アパートの一階に住んでいるから、窓を開けてもジメジメした重たい空気しか入って来ないし、冷房をつけるとあの人工的な冷気で身体が休まらない。そんなわけで、昨日は、殆ど明方になるまで寝ることが出来なかったのです…

つまりは、今日読み進める予定だった福田歓一さんの『ルソー』にあまり手を付けられていない。でもまあせっかく奇跡的にも今のところ毎日ブログを書き続けられているのだから、パッと目についたことだけでも書き留めておこうと思います。

まず興味深いのは、ルソーの歴史的認識だとおもいます。まず、17、18世紀にフランスは政治的にも文化的にも隆盛期を迎えます。広大な対外進出によって広大な殖民地を獲得し、内政的には絶対君主制によって太陽王を呼ばれたルイ14世(1638-1715)はフランスの政治権力を象徴的に現す人物であるといえますし、彼が建造を試みた(完成は死後になりますが)ベルサイユ宮殿は、こうした圧倒的な財力のもとで花開いた壮麗な文化を象徴していると言えるでしょう。この華麗な発展の元にあって、当時の人々にとって啓盲主義的な進歩史観を疑うなど思いもよらないことでした。つまり、当事の人々は、過去から未來に向けて、社会が発展してゆくものだと思い込んでいたのでした。文化の領域においてギリシア・ローマ文化が代表する古代と同時代のどちらが優れているかについての論争、すなわち新旧論争というものがありますが、ルソーが生きた時代18世紀も半ばになると、当事のフランスの人は、すでに自分達の文化がギリシア・ローマ文化を遥かに凌駕しているとさえ考えたようです。繰り返しになりますが、当時のフランス人は、文明の進歩と文化的繁栄に絶対的な自負を抱いていたのです。

話をルソーに戻しますと、ルソーは、こうしたフランス文化のなかに退廃の香りを鋭敏に嗅ぎつけました。ルソーは当時主流であった啓蒙主義歴史観に真っ向から対立する見解を提出するのです。文明の批判者たるルソーは、次のように喝破します。

「われわれの学問・芸術が完全なものへと進歩するにつれ、われわれの魂は腐敗した」

ルソーは、文明の進歩とともに、人間の持つ徳性と行ったものが逆に退化していくというテーゼを発表したのでした。これが、当事の人々の考えに水を差すようなものでした。

 

<続く>徳性が退化していくものであるとするならば、当然退化する以前の姿があるはずです。そしてそして、その退化する以前の状態すなわち自然の状態とおそらく「子ども」という概念の発見は密接に関係していると思われます。今日はここまで。

自然にかえる

 

ルソーといえばおそらく18世紀の思想を語る上で外すことの出来ない人物だと思います。とは言え、今までルソーについては殆どかじったことさえありませんでした。ルソーについては、「子ども」という概念を発見しただとか、社会契約説を唱えフランス革命アメリカ革命に影響を与えた人物であるとか、断片的な業績がぽつぽつと思い浮かぶくらいで、殆ど何もしらない事に気がつきました。ということで、ルソーの実際の作品に取り組む前に、彼の思想の大まかな全体像を把握しておきたいと思ったので、本屋に行って岩波現代文庫から出ている福田歓一さんの『ルソー』を買ってきました。だいたい、ある思想家の考えを知ろうとする際に、原典に当たるのではなく、概説書に頼るのは知的怠慢であるといわれそうなのですが、膨大な著作をいくつも残している思想家に闇雲に取り組む時間も体力もないので、ルソーの思想の手引として、福田歓一さんの本を使いたいと思います。

まだ出だししか読んでいないのですが、福田歓一さんはルソーの思想的影響について次のように書いています。

「たしかに、感情をあらわにしない文化を作った英国人の間では、ルソーは総じて人気がない。」(4頁)

そしてそのあと、ルソーが影響を与えた思想家として名前が挙げられているのがカントとヘーゲルというドイツの思想家なのです。そして、ここには名前があげられてはいませんが、ゲーテと共にドイツ古典主義というドイツ文学の1つの頂点を築いたシラーにも明らかにルソーの影響を読み取ることが出来ます。ここではまだ深入り出来ないのですが、フランスで数々の敵に囲まれてたルソーがフランス文化に対して激しい劣等感を抱いていた当時のドイツ人たちによって積極的に受容されたというのは興味深い事実だといえます。この点についても、ルソーについて一通りの知識がついて来たらまとめていきたいとおもいます。

というわけで、今日もあまり内容のないことをダラダラと書いてしまったのですが、とにかく毎日更新することを心がけたいと思います。