続.母性 

 

パート1は、ただ纒めるのが面倒になった為に、つづくと残してやめてしまいました。まぁ殆ど書き加えることも無いのですが。簡潔に述べるならば、通常、母性という本性に根差していると考えられているものが、近代の発明であり、決して女性に生まれながらにして備わっているような類いのものでは無いということです。そして、この概念の発見と密接に結びついているのは、これまた「子ども」という概念の発見でした。近代以前に「子ども」は存在しておらず、それに相当するのは、未熟な大人でした。未熟な大人とは、なんら保護すべき存在ではなく、大人と扱い方の点においてなんら差異はありませんでした。そして、「未熟な大人」の無邪気で無垢な様子は、大人の様に理性が発達していない状態として、否定的に受け取られていました。

ルソーが「子ども」という概念を発見して初めて、「子ども」が大人と異る存在であるということが社会的な通念となったのです。「子ども」が大人とは違った配慮を必要とすることが明らかになったのなら、当然、そのように「子ども」を育てるべきかという問題が発生します。ここで、子どもの教育に対して大きな責任を担わされることとなるのが、母親である女性なのです。

 

最初は、母性と「子ども」と言う概念を簡単に図式化出来ると考えていたのですが、それが、なかなか難しいですことに気がつきました。と言うのも、この両者の概念を結び付けるためには、恐らく家族という概念(これもまた、フランス革命前後に産み出された概念であるという)を考察することが不可欠なのです。「子ども」や「母性」という言葉は、それそのものの意味は、非常に簡単なのですが、それが他の概念との連関のなかでどのような意味をもっているのかを確定ですしようとするや否や、これがかなり困難な作業になってくるのです。そして、構造主義的に考えるならば、こうした概念を複雑なネットワークから切り離してその意味を考察するよりも、その言葉のネットワークのなかでどのように機能しているか確かめることが不可欠なのです。

 

というわけで、次は、昨日書いたことをまとめるためにも、次回は、フランス革命期の社会、とくに家族に関する社会についてまとめていきます。

おわり

『女性学/男性学』気になったとこまとめ

 

 

千田有希の『女性学/男性学』を読んで。気になったらところだけちょろっと抜き出したメモ

 

普通、母性は人間とりわけ女性の本能に不覚根ざした感情だと考えられている。時代や場所が違えど、女性であれば当然抱くべき感情であると。母性が女性を構成する重要な要素として捉えられている為に、実の子を虐待したり、育児をネグレクトしたりする母親のニュースを聞いたら際にわたしたちが感じることは、そうした非情な行為に及んでしまった母親がある本能的な部分で機能不全を起こしているのではないかという疑念だ。普通の母性を持った母親であれば、あり得ない様な行為であり、義理の父が妻の連れ子に手を挙げるのとは、違った風に受け止められる事が多い。こうした印象の背後には、間違いなく母性に対するある種の社会的通念があると考えることができる。

 しかし、より広い歴史的視座から母性を考察して見ると、現代では当然だと思われている、本能としての母性が近代の発明であったことがあきらかになるという。千田有希は、このことについて次のように述べている。

「フランスの歴史家エリザベート・バダンテールは、『母性という神話』で、フランス革命以前のパリでは、生まれたばかりの子どもは田舎に里子に出され、乳母によって育てられ、四、五歳位になったら返してもらうということが普通だったということを指摘しています。」

むしろ、今日的な視点から観れば、生まれてから45歳くらいまでの子どもこそ、母親を必要としていると考えられているのではないだろうか。もしも、母親と子どもとの関係が、女性のなかに備わっている自然の力によって、結びつけられているとするならば、フランス革命以前まで行われていたという、産まれたばかりの子を里子に出す習慣を理解することは到底出来ない。わが子を自らの手で育てるという現代の常識が生じるためには、「子ども」という概念が必要なのだ。言いかえれば、この「子ども」という概念は、近代以前には、存在しておらず、「子ども」とは「未熟な大人」にすぎなかったのである。我々が幼稚な大人に対して可愛らしいなどという感情を抱かないのと同じように、当時の人びとは、子どもに対して、無邪気で純粋だといった感情を抱くことはなかったのだ。「子ども」という概念を生み出したのは、もちろんフランスの思想家のルソーである。この「発明」によって、子どもは、大人とまったく違った存在であり、特別な方法で庇護を受けるべき存在だと認識されるようになったのだ。

 

つづく

継続すること

何事も継続することは難しい。

たった一行でもいいからブログを毎日更新するだけでも、怠けものの自分にとっては、ハードルが高い。毎日たった100字書くだけでも、一年間で3万字を越すんだから、ちょっとした努力の積み重ねはあなどれない。27歳にもなって、今更思うことは、結局、中学校や高校でクラスに3、4人はいた、なんでも器用にこなしてしまう容量の良い子は、ちょっとしたことを倦まずに続けられる人だったということ。

中学生のころ、復習するどころか、授業だってろくに聞いていなかったぼくが、定期テストの前になって、焦って勉強したところで、結果なんてたかが知れていた。テスト前に全然慌てている素ぶりなんてみせないのに、テストであっさりと高得点をとってしまう人を見ると、いつも地頭が違うのだろうなと羨んでいた。ちょっとしたことの継続って目立たないのだもの。。。

勿論、僕と同じ様に怠惰な生活を送りながらも、テスト前に少し根気を入れてやれば学年の上位に食い込める天才型の人もいたのだろうけど、そんな人と比べても時間の無駄だ。

もし自分に真似できることがあるとすれば、コツコツやり続けることだけ。

今日から、改めて、毎日ブログを書いていきたいとおもう。

春めいてる

ここ数日の寒さと打って変わって、今日は春めいてポカポカした日が差している。今日は、ひょんなことから、グリム兄弟が編纂したドイツ語辞典をお譲りいただけることになりました。グリム兄弟といえば普通メルヒェンの収集と編纂で有名なのだけど、膨大な辞典の編纂を始めた人物でもあるのです。

今回いただいたのは、黒くて厳しい装丁の版ではなく、ペーパーバック版です。

 

 

Deutsches Woerterbuch.

Deutsches Woerterbuch.

 

 

このペーパーバック版を手に取るのは初めてだったのですが、ハードカバー版よりも断然軽くて扱いやすいです。ハードカバーの方が耐久性は優れているのですが、正直なところ、重すぎて手に取る気になりません。

各巻の冒頭には、この辞書が編纂された年代が記されています。

f:id:lehrjahre:20180419172017j:plain

第1巻が編纂されたのは、なんと今から150年以上も前の1854年。1歳年齢の離れた兄弟がほぼ70歳のときです。それも、A〜Zのうちbiermolkeまでしか進んでいません。当然、グリム兄弟の生前にアルファベットのZに到達することはできず、この辞書の完成は、後世の人々の手に託されることとなります。そして単語Zypressenzweig(糸杉の枝)で終わるこの辞典が最終的に完成したのが、世紀も変わり、二つの大戦すら終わった後の1954年です。つまりちょうど100年間。

おー恐ろしい。

そして、このような面でのドイツ人の几帳面さというか潔癖さは、恐ろしいものであります…

大事に使います。

春の

すこし遅めの入学式があったようで、大学の門では入学式の看板に並んで記念撮影をする学生とその父母が長い列を作っている。春の風とすでに新緑を予感させる緑と新入生をサークルへと勧誘する学生の声がこの時期恒例の風景を織り上げている。期待とか希望からくるエネルギーが辺り一面に充満していて、その密度の高い空気のなかをかき分けるように通ると、自分も歳をとったなぁとか、こんな時期もあったなぁとか、いろいろな思いが去来してくる。賑やかな周囲には似つかわしくないほどセンチメンタルな気持ちになってしまう。

一歩一歩できることを着実にやっていこう。

最後に昨日買った本を貼っておきます。

 

蛇を踏む (文春文庫)

蛇を踏む (文春文庫)

 

 

読む

大学生活の総決算といえば、一応卒業論文ということになる。一応と書いたのは、もはや多くの学生にとって、卒業論文は、レポートの延長線上にある1つの課題に過ぎず、卒業論文に正面から取り組もうなんて学生は数えるほどにしか残っていないからだ。他ただでさえサークル活動やバイトで学生は忙しいのに、四年生になるとさらに就職活動をしなければならない。彼らにとって、卒業論文に腰を据えて取り組もうなんて眠たいことは言ってられないのだ。就職活動という波に完全に乗り遅れた僕は、同級生から世捨て人とか、御曹司だとか、お寺の跡取りだとか噂されながら、しこしこと卒業論文を書いていた(一応断っておくと、僕はそのどれでもないです)。

すでにサークルを引退し、就職活動もしていなかった僕は、同級生よりも遥かに時間的な余裕があった。当然、その時間を使っていい論文を書こうと思っていた。そんなこんなで、心構えだけはご立派だったわけだが、進捗状況はというと夏休みが終わる頃になってもほとんど何も書いておらず、提出期限も残すとこと3か月といった状況であった。

結果からいうと、その残された数ヶ月も有意義に使うことはできず、多くの学生がそうであったように、残り1か月で、締めきりに追われるように書き上げて、なんとか提出することができた。もちろん、そんなもんだから、僕が当初思い浮かべていたレベルには、到底およばない、情けない出来上がりとなった。

自戒を込めて言うのだが、文学部の学生が文学作品を題材として扱う際に重要なことは、とにかく扱う作品(邦訳でもいいので)を徹底的に読み込むことである。僕には、圧倒的に、作品の読み込みが足りなかった。研究論文をインターネットで適当に探し、他人の論文を読み漁っているうちに、自分が作品に対して抱いている考えを見失ってしまい、何を書けばよいのか全くわからなくなってしまった。

多くの学生が指導教官に言われること、それは、先行研究を探せということだろう。たただし、そこには、作品と正面から向き合うことが前提にある。先行研究は、ある作品に対する視点や論点を与えてくれる点でもちろん読むべきものであるが、論文を執筆する上で最も重要なことは、一語一句忽せにせずに作品を読むことだ。そしてそれを通して、書きたいことを自分なりに作り上げること、遠回りに感じるかもしれないがそれなくしては、いいものは書けないんじゃないかな。というわけで、卒業論文を書く前に読んでいればよかったという、文学研究の入門書とも言える本を挙げて終わります。

 

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

 

 

メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』という作品を通して、様々な批評理論を紹介しているとても勉強になる一冊。一年生からでも、比較的スイスイと読みすすめることができるほど平易な文体で描かれている。卒業論文に取り組む前に一読することをお勧めします。

 

空気が微かに春っぽさを帯びる頃になると、ありふれた期待とありふれた不安の入り混じったモヤモヤが心の中で膨れ上がる。昔はこのモヤモヤがもっと抽象的で、言葉で縁取ることができなかったんだけど、同期が転職したり、結婚して子供ができたという報告を聞くと、「これだ」と思う。人生の航路を追い風を受けて走る人間と、途中で方向を見失っていつまでもウロウロしてる人間がいる。僕は後者で、前者のような人間が羨ましいし、そんな順風満帆に道を歩んで行く人によって、自分のモヤモヤが輪郭付けられてゆくことに寂しくなる。
それでも春なんだから楽しくいきたい。