正月

冬休みも残すところ二日。

休み明けに備えるため、昨日実家から帰省した。

 

いつものことながら、僕だけが周囲から取り残されているような、そんな気分になった。帰省するたびに遊んでいる友達の半分はすでに結婚している。

僕はまだ大学も卒業していない。

着々と人生のステップを登って行く友人たちと、同じところでずっと足踏みを続けている自分とじゃ、その差は開いて行くばかりだ。

 

学生の頃のよく話したことは脇へと追いやられて行く。

音楽や映画や本などに代わって、現実的な話題が徐々に話を占めるようになっていた。

家庭、子供、仕事、家…

学生だった頃は、全く実感のなかった話題で盛り上がる。

そんな時改めて、自分が持たざる者なのだと言うことを知らされる。

 

 

 

トロイ

元旦からなぜか映画『トロイ』を観た。

2004年に公開された映画で主演はブラピ。

ウィキぺディアを観てみると、史実を大幅に改変していることに対して、賛否両論が起こったらしい。ウィキではとりわけ、塩野七生の酷評が挙げられている。

ギリシアの英雄叙事詩イリアス』を土台にしている以上、こうした批判は加えられてしかるべきだと思うが、そもそも、『イリアス』や『オデュッセイア』は、ヨーロッパ文学の源流として、その時代ごとにそれに応じて解釈されてきた。だから、この映画もギリシアの英雄叙事詩を現代的に翻案したものだと考えれば、それほど違和感がないように思う。

それに、この映画では、神がことごとく作品の外に追いやられている点は興味深い。アキレスやヘクトルは、神に対して疑念を抱いている人物として描かれている。

 

というわけで、ここでは原作や史実との違いには、ひとまず目を瞑る。尤も、そのような文献学的な観点からこの映画について語る知識も才能もないのだけど。

 

この映画の面白さは、やっぱり人間ドラマにまとめられている点にある。

この映画をアキレウスの成長物語とみるならば、その段階を3つに区別できる。

1. 富と名誉

2. 愛と憎しみ

3. 名誉と愛

1.の段階で描かれているのは、戦争で武勲を挙げ歴史に名を刻むことを重要視するアキレウスと莫大な富と世界の支配を試みるアガメムノンの対立だ。トロイア戦争の最中にアガメムノンアキレウスから捕虜であるブリセイスを取り上げたことにより、二人の間の決裂は決定的なものとなる。

2. で問題となるのは、愛と憎しみである。アキレウスは次第にブリセウスに愛情を抱き始める。また、愛するたった一人の従兄弟パトロクロスヘクトルによって殺されてしまう。アキレウスは、ヘクトルに一騎打ちを挑み、彼を殺した後も、パトロクロスを失った怒りを収めることができず、ヘクトルの屍体を戦車にくくりつけ引きずり回し、侮辱する。ヘクトルの父でありかつトロイの王であるプリアモス王が自ら夜に紛れてアキレウスの許を訪ねる。この勇敢な行為にアキレウスは深く心を打たれ、プリアモスに屍体とブリセイスを城に持ち帰ることを許す。ここでも、父と子の強い愛情が描かれている。

3.では、オデュッセウスの献策、あの有名なトロイの木馬により、城の陥落が決定的になる。ここでは、戦争にもはや目もくれずブリセイスを混乱のなか探し回るアキレウスの姿が描かれる。(すでに、トロイ一の武人ヘクトルを倒しているのだから、もはや十分な武勲をあげていると言えなくもないのだけど…)愛するブリセウスがアガメムノンによって捕えられているところを救ったアキレウスは、その直後にパリスによって殺されてしまう。

 

こうして、三段階に分けてアキレウスを考察すると、アキレウスが人間らしい心を取り戻す人間ドラマとして描かれていることがはっきりとわかる。

戦争における名誉が全てだったアキレウスが愛へと目覚めていく物語なのだ。

 

ただ、この映画でのアキレウスの人間像からもなんとなくわかるように、登場人物の描かれ方の浅さは否定できない。『イリアス』において、アキレウスは作品の最初から優れた戦士でありながら、繊細な感覚を持った人物として描かれている。竪琴を弾きながら唄を歌ったり、自らの境遇に涙を流したりと、一言では描ききれない奥深さが『イリアス』のアキレウスにはある。

映画においては、そのような『イリアス』におけるアキレウスの人物像が、マッチョな男性像へと大幅に捨象されている。そして、アキレウスの成長物語へと組み替えられているのである。僕としては、むしろ、アキレウスの成長物語を描くよりも、そのまま『イリアス』のアキレウス像を引き継いだ方が、現代的な映画ができたのではないかと思う。

 

と、結局原作の法を持ち出してしまったけど、全体としてはとても面白かった。

 

 

 

ハッピークリスマス

一年の中でもクリスマスほど街中が色めく日はないだろう。寒空の下、イルミネーションに照らされた街を行く人たちの足取りは軽やかだ。

誰もがこの日を分かち合うための相手を持っているように見える。

俺は午前中にアルバイトが終わると、そのまま家に帰るのも惜しい気がしたので、行く当てもなく街へと出てみた。クリスマスで賑わう街から、おこぼれの1つにでも与れるような気がしたんだ。

当然世間は俺みたいなクズに何か恵んでくれるほど太っ腹じゃない。混み合った通りを歩いていると、俺のなかでむかむかする何かが込み上げてくる。濁った汚水のような悪臭をプンプン放つ何かが。

そいつを一言で表そうとするのは簡単なことじゃない。俺のなかで長年蓄積されてきたさまざまな嫉妬や恨み、挫折や劣等感からできているからだ。

でもそれよりもうんざりするのは、俺がそのムカつきを抑え込むために必要だと思い込んでいるものだ。

本当ならばもっとお金があって、可愛い彼女がいて、かっこいい服を着て、小洒落たレストランでディナーを食べて、ホテルで一晩を過ごして…

金を払ってでも聞くのを願い下げたいような願望が、ひとりでに頭のなかでガンガン響いてくる。耳を塞いでも、音楽を聞いても鳴り止まないんだ。

俺は、居場所なんてない所へと、のこのこ出てきたことを即刻後悔した。

(続く)

 

 

 

 

 

 

もう10月

昨晩の台風は凄まじかった。築40年近いおんぼろの家に住んでいる身にとっては、本当に恐怖でしかなかった。猛り狂う暴風は部屋の窓をぶっ壊しそうだったし、家全体がガタガタ揺れて今にも崩壊しそうだった。

そんななか起こったのは、それまでの恐怖を完全に消し去ってしまうような出来事だった。

なんとなんと嵐の夜に紛れて、家にGが出現したのだ。

僕は、自分の部屋から狭い階段を降りてキッチンまで行く途中にあの黒く滑り光るやつに遭遇し、パニックに陥りほとんど階段を転げ落ちるように降りたせいで、情けないことに指を切ってしまった。そうこうしているうちにGは二階の部屋へと侵入。

しかも今まで見たことのないようなサイズのひこうタイプ。どう考えても人りで対処できるようなGではなかったので、寝酒でヘロヘロになっっている同居人を叩き起こして、二人で紙を丸めた棒を持って二階へとGの討伐へと向かった。

階段を慎重に登ってゆく同居人。僕は後ろで同居人を鼓舞する役目をになった。

部屋までたどり着き、部屋を見渡しながらGを探す。

すぐに本棚の側面でじっとしているGが見つかった。

同居人は酔っ払った同居人は、すかさずGを叩き潰しにかかった。

そしてここで二度目の悲劇が起きた。なんとGが僕の方へと飛んできたのだ。

僕は、ヒーっと短い悲鳴をあげて、体をよじって逃げようとし、足を捻った。

しかし、どうにか逃れて、手前30センチというところでGは地面に降り立ち、同居人の手によって無事屠られた。

この一連の最悪な出来事。

台風アンドG

この家での忘れられないエピソードの一つになることだろう…

僕は翌日急いでハッカの匂いがするアロマオイルを買いに無印へと向かった。

 

 

69

村上龍の『69』を読み終えた。

ポップで乱暴でセンチメンタルな小説だった。

おそらくこれほど60年代という時代が育み、創作の原動力になっている作家って村上龍以外にいないんじゃないかぁ。

『69』は混沌とした社会のなかをそこに埋没してしまうことなく生き抜いた人間にしか書けない小説だと思う。小説家はだいたい内省的で、時代のうねりのなか逞しく波に乗ってるというよりは、そうした渦中には直接関与せずに、冷静な目で外から眺めるようなタイプの人が多いイメージがある。

そして村上龍はこうしたタイプの小説家と対極に位置している。

おそらく村上龍自身がモデルとなっている『69』の主人公ケンは、社会的な状況というものに呑み込まれても黙って、メソメソなげくようなタイプではない。ベトナム戦争学生運動で揺れ動く社会のなかで自分が信じるもの(学校一の美人)を手に入れようとあらゆるものを利用する。あらゆるイデオロギーがこんがらがりながら自らの正当性を主張する時代で、ケンが志向するものは極めてシンプルだ。

純粋でありながら残酷なほど鋭利でアイロニカルな態度を社会に対して向ける主人公の眼差しによってあらゆるイデオロギーは空虚で滑稽に見えてくる。難解な理論や思想が、美少女と付き合うことという至極単純なことの前にあっけなく崩れ落ちてしまう様子は、どうしようもなく笑いを誘う。

いくらしゃちほこばって小難しい理屈を説いても、ケンみたいな青春を送ってみたかったなぁという気持ちは治らないし、自分の平凡で退屈な学生時代を鑑みると遣る瀬無い。あー学校一の美女とランデブーしたい人生でありました。

 

終わり。

69

昔『透明に限りなく近いブルー』を読んで以来、村上龍の作品には手をつけていなかったのだけど、友達が超おすすめしてくる上に貸してくれたので『69』を読み進めている。

村上龍が描く、世間の流れに冷ややかな態度を取りながら、セックス・ドラッグ・ロックンロールな生活を送る主人公像は、やっぱり『69』でも健在だ。ただ、『透明に限りなく近いブルー』に漂うどんよりした閉塞感は、『69』ではそのポップな筆致も手伝って薄まっている。

時代は題名の通り69年。全共闘時代の熱気と空虚さのなかで、あらゆる派閥から距離を取りながら生きる弁の立つ主人公は清々しいくらいにかっこいい。

村上龍ほど好き嫌いが分かれる作家もなかなかいないだろうけど、会話を生き生きと描きだす才能は抜群だよなぁと読むたびに感じさせられる。

最後まで読みきったら追記しようかな。

一饋に十起

寒さが身に沁みる。

もう外は息が白くなるくらい寒い。ガタガタ震えながら玄関の先でタバコを吸いながら、我があばら家を見上げると冬を果たして無事乗り越えることができるのか不安になってくる。家の彼方此方に隙間があって風が部屋に吹き込んでくるし、何故か廊下と部屋を区切るはずの扉はないし。本当に無い物には事欠かない家だなぁ。

すでに人生で過ごしたなかで一番過酷な冬になることがはっきりと想像できる。

 

それはそいうと最近はトップバリュの安さに感激する毎日を送っている。

あのクイックルワイパーの先につけるシートがトップバリュの「フローリングワイパー用ドライシート」30枚入りで88円…

有難や有難や…ちゃんとした花王のシートを買うと20枚入りで倍以上の値段がするので、かなりお買い得だと思う。もちろん品質は花王の方に軍杯が上がるのだけど、使ってみた感じトップバリュのやつもほとんど顕色なくフローリングの埃や髪の毛を取ってくれる。

こんな感じで、ちょっとお得な買い物をしたときに感じる慎ましい満足感が日々の楽しみになっている。オセンチボーイ