アメリカン・サイコ

アメリカン・サイコを観たよ。

 

 

アメリカの資本主義的な社会を象徴するような映画。一応サスペンスなのだけど、いたるところから滲み出ているギャグっい雰囲気のお陰で、一人で見ていても全然怖さはない。友達同士で名刺を自慢し合うシーンや主人公が全裸でチェーンソーを振り回す場面は、普通に受けてしまう。

そして、このサスペンスと(本来意図したものではないはずの)ギャグ要素が絶妙に混じり合ったこの作品に、主演クリスチァン・ベイルの狂気じみた演技が超ハマっている。

主人公、一流会社の副社長であるパトリック・ベイトマンは、高級マンションに住み、日用品も選び抜かれたものを使い、高級なレストランで食事をとる日々に自己陶酔的な満足を覚えている。彼の友達も、良き仲間というよりは、自己を誇示し合うためにお互いに必要としているといった関係に過ぎない。

こうした華やかではあるが空虚な日常を送るベイトマンは、人を殺したり痛めつけたりすることに、エクスタシーを覚えるというある種の狂気を抱えている。

ホームレスや自分よりも優れている人間を平気で殺してゆく。ベイトマンを語る上で象徴的なのは、売春婦を二人家に招いて、3Pするシーンだと思う。このとき、ベイトマンは、売春婦に自分で考えた名前を与え、それに反応するようにと命じる。そしてカメラを置いてその前でセックスをしながら、カメラに向かってポーズを決める。ここもほとんどギャグみたいなシーンなんだけど、ベイトマンナルシシズムがはっきりと現れています。そこに他者性は全く存在していなくて、ベイトマンにとって女性とは自らの欲望を満たす道具にすぎず、思う通りの自己を映してくれる鏡でしかない。

このベイトマンと女性との関係は、あらゆる人間関係にも当てはまる。とにかく、ベイトマンは人の名前を間違える。これは、ベイトマン精神疾患が原因とももちろん考えることができるのだけど、そもそも、ステータスや肩書き先行で人物を判断するベイトマンにとって、そうしたものと関係なく付けられた名前は、覚えるに値しないものとも言える。

このせいで、正直なところ見ている方は混乱してしまうのだけど…。

そして殺しに殺して、最後は、追い詰められて助けを求めるのだけど、彼が殺しを楽しんでいた部屋は、この後も家を貸したい大家さんが跡形もなく片付け、彼自身の記憶違いから、なかったものとして片付けられてしまう。ここに拝金主義的な社会の恐ろしさが現れているのだろう。

なんか雑にまとめてしまったけど、結局ベイトマンが冒した殺人がどこまで本当で、どこまで彼の妄想だったのかは、よくわからない。

もう一度じっくり見てみたい。

とにかくいろんな意味で名作です。

 

おやぷみー

 

内見

今日は、埼玉の方まで一緒に住む予定の友達と内見に行ってきた。

最寄駅から、バスで12,3分という絶妙な距離にも関わらず、この炎天下のなか現地集合。クゥー不動産屋さんの鬼畜っぷりがたまりませんでした。まぁ、一軒家にも関わらず6万円という安普請なので、仲介手数料もしれているのでしょうけど。

といわけで、物件についた頃には汗だくだく。しかも、時間通りについたのに、それらしき人はどこにも見当たらず。仕方がないので電話をかけてみると、駐車場に停めてあった車から、おじさまが降りてきて、コロコロ走ってやってきた。

そこにおったんかいという気持ちでいっぱいだったのだけど、悪い人ではなさそうで、おしゃべりな地元の不動産会社のおじさんといった感じだった。ただ、話が回りくどかった。お金のない僕たちは、単刀直入に初期費用で幾ら掛かるか知りたかったのだけど、くどくどと前に住んでいた人の話とか最近の不動産業会の話だとかで煙に巻かれて、なんとなくぼんやりと家賃の3.5ヶ月分最初に必要だということがわかった。

それで次に、契約の話になったのだけどここで少し話がめんどくさいことになってしまった。僕はまだ定職についていないし、友達も内定は持っているものの、研修期間を終えてから正規雇用になるので今の所は実質的に無職だったので、契約主になることはできないと言われてしまった。しかも、不動産屋のおじさんこの時はやたら率直に「つまり無職ってことですよね」とか聞いてきて、精神的にダメージを負いました。

となると、残された道は、親に頭を下げて契約主になってもらうしかないということ。悲しみー

でも、家自体は築50年近いけど、中はリフォームが入っていて、あまり、住みにくいことはなさそう。ここで決めたいなー

 

終わり

 

オープンキャンパス

オープンキャンパスといえば、ひと昔前は、高校生が校舎を見学してその大学の雰囲気を摑むくらいの意味合いしかなかったのだけど、最近はどの大学もこのイベントにとても力を入れている。

オープンキャンパスのためにたくさんの学生が集められて、受付や道案内、キャンパス内のツアーガイドや体験授業の補助などの仕事が割り当てられる。正門を入ると、学生のお手伝いさんが、大学名の入った手提げバックを渡してくれる。そこには、お金のかかってそうな大学のパンフレットや大学オリジナルのボールペンなどが入っている。体験授業も、各学科がいくつか開講していたりして選り取り見取りだし、学生がキャンパス内を案内してくれたりする。疲れたら休憩所も用意してあって、学食でご飯を食べることもできる。

といった感じで、もはやほとんどの大学でオープンキャンパスは一大イベントになっているのです。そして、高校生のなかには、お母さんと一緒にくる人や、一家全員でやってくる人もいる

たまたまオープンキャンパス開催中の某大学の前を友達と通ったとき、友達が、「最近のオープンキャンパスって親も来るのやばくない?過保護すぎだし、自分で進学先くらい決めろよって思うわ」と言いった。僕も「確かに、高校生の時オープンキャンパスなんてそもそも行かなかったわ」と返事をしたのだけど、後日よく考えてみると、自分もバッチリ親と行っていたことに気がついた。いやーっ地方から東京の大学に見学しにいったから親がついてきたんだろうけど、自分の記憶って当てにならないなぁと思ったよ。

それに、今の自分よりもさらに高校生の時の自分は決断力も行動力もなかったと思うと、恥ずかしいというか悲しいというか…

と同時にヒトって自分でも気がつかないうちにだんだん成長してるんだなぁとしみじみ感じた。今だったら国内であればどこでもいけるもんなぁ。

そうして、もし子供ができて、その子が高校生になったら、自分も我が子のオープンキャンパスについていくなんてこともあるのかもしれない。いやー感慨深い、そしてその時には、自分が親についてきてもらったことなんてすっかり忘れてしまっていて、子どもに、「自分が高校生の時には一人で東京まで出てオープンキャンパスにいったんだぞ」とか言ってしまっているのかもしれない。

そして、ひょんなことからそれが記憶違いだったことに気がついて、またちょっと顔を赤くするのかもしれない。

だから、これほど「かもしれない」という妄想をさせてくれたオープンキャンパスの勘違いに感謝しております。

 

 

バント

平成最後の夏、充実させるぞという意気込みで、ToDoリストを作ってみた。

無鉄砲な計画を立ててしまったけど、どれくらい達成できるのだろう。自分がやりたいことをリストアップして、優先順位をつけていく。こうするだけで、やりたいこと・やらなくちゃならないことがすっきりする。手当たり次第無計画に手を出してしまう癖があるので、少しでも、優先順位に従ってやらなくちゃいけないことを消化できればいいなぁ

引っ越し

無職、その日暮らし。

親にお金を貰って、生き延びる日々。

なんて悲しいんだ。

しかもそれなのに家賃6万の家に住んでいるというクズっぷり。

このままじゃあダメだ。というわけで、最近は、友達とふたりで郊外の一軒家を借りて、家賃を折半して住む計画を進めています。

今のところ埼玉の奥地で家賃6万ほどの震度3の地震で崩壊しそうな良く言えば侘び寂びのある草庵を見つけたので、日曜日に友達と内見に行ってきます。

周りの「まともな」同級生は続々と結婚してゆくなか、先の見えない霧中を彷徨い続けております。でもまぁ、なんとかなるyo!という謎のポジティブさで毎日を過ごしてこ!

泣きながら

情けなくて泣きたくなるねぇ。

まずね、日々を少しでも充実させたかったら、スマホを用もないのに触るのを止めることです。自戒を込めて。忙しい時に限って余計スマホツイッターやらネットサーフィンやらをダラダラしてしまって、気がついたら平気で1時間くらい経ってるわけ。そして、一時間もあの小さい画面を見続けてたら目はチカチカしてくるし、頭もますますぼーっとしてくる。

これじゃいかんという気持ちになって、また休憩がてらスマホを見てしまう。こうして無限の悪循環に陥ったら最後で、最悪の気分で1日を終えることになってしまう。人類はなんて恐ろしい物を発明したんだ…

こりゃドラックや…わしみたいなバカな人間が持つ道具じゃないんじゃ…骨抜きにされて廃人になってしまうんや…

手遅れにならないうちに、脱依存を目指したいと思う。

 

 

 

生活とらっきょう

今日で閉幕のエッシャー展に、金曜日ギリギリで駆け込むことができました。噂に聞いていた通りの盛況ぶりで、チケットを買うだけでも5分から6分、さらに美術館に入館するのにさらに30分ほど待ちました。夏休みがもう始まっているからか、中高生や大学生の姿も多かったです。ここ最近は、東京の美術館の企画に目が離せないものが多くて、アルチンボルト展やプラド美術館展などを見に行ったのですが、エッシャー展ほどの賑わいは到底なかったです。

館内に入ってからも大混雑だったので、正直なところ、一枚の絵の前に長い時間立ち止ってみるということはできませんでした。展示自体は、僕のようなエッシャーの絵を図版でちらっとしか観たことのない素人でも、楽しめるよう巧みに分類、配置されていました。しかし、かなりの作品が集められているので、ずーっと同じペースで観るのは、かなり厳しいです。歪んだ鏡面に映し出した自分の姿を描いた作品や、超現実的な建築物を描いた「滝」などの作品は、最後の方に展示されているので、そこにたどり着いたときには、人混みで完全にヘロヘロになってしまい、じっくりと観る体力が残っていませんでした。自分の関心のないところは気持ち半分に見て(それがなかなか難しいのですが…)目当ての作品に時間をかけたかったなぁというのが反省点です。

本当に図版で観るのとは全然違って、精緻に引かれた線一本一本や、紙の質やインクの色味などが織りなすエッシャー独特の世界は、超陳腐な言い方ですが、何時間でも観ていたくなります。それだけに、もっと空いているときにゆっくりと来たかったです涙

 

次は興味のある展示がきたときには、いい感じの平日に行ってこようと思います。

そんで今日は、これまた話題の映画「カメラを止めるな」を観てきたのですが、これについては、また日を改めて書こうと思います。