ルソーについて気になったところだけ3

 

暑すぎて、ぼーっとするどころか気分が悪くなってきます。

 

昨晩はラーメンを食べた後に猛烈な睡魔に襲われて、少しだけ仮眠を取ろうと思ったのダメでした。起きたらとっくに日を跨いでしまっていたので、何もかも投げ出して寝てしまいました。

せっかくこれまでシコシコと読書メモを付け続けてきたのに、ちょっとした気の緩みで途絶えてしまったのは残念だけど、仕切り直して取り組みたいと思います。

それと、明日とうとう我が家にインターネットが開通するのです。今時ネットがなくてまともな市民生活を送ることができるのかとお思いになるでしょう。そう、めちゃくちゃ不便でした。ネット配信でドラマや映画を見ることができないから、人の話についていくことができなくて悲しい思いをすることもしばしばありました。そんな日も明日でおさらばなのです。わーい。

 

ということで、今日のメモ

ルソーは、『人間不平等起源論』のなかで初めて「自然」という概念を提示します。まず、ルソーは、人間が今現在置かれている内的・外的状況から、人為的なものを全て取り除けることによって純粋な自然状態を抽出します。こうして人間の原初の状態である自然状態が、知的な操作によって見つけ出されるます。当然、このようにして「発見」された自然状態は、実証的な調査に基づくものではありませんから、どこまでも仮説的・理念的なものに留まり続けます。ルソーは、このことを十分理解していたため、自然状態について、「もはや存在せず、おそらく存在しなかったし、たぶん今後も存在することは決してない」状態であると述べていますし、「歴史的な事実でなく、ただ仮説的条件的推理」としています。

そして、観念的に抽出された自然状態とは、ルソーによれば次のようなものであるそうです。

 

「こうして自然状態における人間が感性的な個人として抽出されるとき、自然人は本能に従って生きる存在であって、基本的に他の動物と異ならない。すなわち観念はあっても予見能力がないから欲求は生理的なものにとどまり、コミュニケイションがないから比較、競争、虚栄のような情念は生まれない。それは社会以前の状態であって、道徳的には善でも悪でもない。すなわち、社会生活のもたらす言語も悟性も良心もない。けれども、それは文明に伴う虚弱や病気や卑屈さのない、平和な状態である。」(福田歓一『ルソー』123頁)

 

ここで述べられている「感性的個人」がどのようなニュアンスで用いられているのか、正直なところあまり理解できていないのですが、おそらく自然状態にある人間は、感性を通してしか世界を認識していなかったということを含意しているのだと思います。この点に関しては、大事な部分なので、もう少し勉強してから詳しく述べることとします。

少し話が脱線しましたが、自然人とは、比較や競争や虚栄といった情念をもたず、屈託のない平和な状態に生きていたこととなります。ホッブスやロックと異なり、ルソーの自然観では、自然が何らかの欠乏がある状態ではないということが重要です。むしろ、それ自体としてすでに完成した状態であると言ってよいでしょう。

とすれば、どうしてこのような屈託なく平和に暮らしていた自然人たちが、文明への道に舵をとら必要があったのかという疑問が当然生じることとなります。

 

今日はこのあたりにしておきます。次回は、できれば実際に『人間不平等起源論』にあたりながら「自然」という概念について補足しながら、なぜ人間がこの状態から抜け出してしまったのか考えていきたいと思います。